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第159(日)ポッポちゃん  

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今週の中頃、事務所で仕事をしていると、窓先に鳩がネットに引っかかっているのに気づいた。上階の住人がベランダに侵入してくる当に鳩よけネットに引っかかった間抜けな一羽。
最初は気にもとめずに、仕事の画面に意識を戻すが、ポッポの奴も必死にもがいていて忙しそうというか、苦しんでいて、そちらに気を取られる。あがいているうちにとうとう、なぜか首だけにネットの一端がかかって首をつられた状態、いよいよ私たち事務所のベランダ側に、まるで市場に吊られた食鶏のシルエットさながらをさらけ出した。
このまま死んでしまえば、上階の人は、鳩よけネットの功罪がわからぬまま、しかもポッポの屍が自分の仕掛けにかかっていることがわからぬままである。いや、そのまえにポッポが、普通にかわいそうでもある。ポッポと言えば、=糞害としか認識できない輩に、同情せざるおえない光景となってしまった。
こうなるともはや、意識を仕事に戻すことができず、カッター(大)を棒の先端にくくりつけて、首を吊っている細い一本をサムライ気取りで一気に振り切る。あれだけ羽ばたいてもがいていたから、そのまま飛び去るかと思いきや、我が事務所のベランダ側に、転げ落ちてきた。そして、アルミサッシ脇に立つ私の足下へと、のそるのそると、すりよってきた。
ああやはり、何十分かの網との葛藤で、体力が削がれたのだろう。すぐには飛び立てないのだ。まあ休んでいくがいい。でも糞はするなよ、と目線を送りつつ、なんとか意識は仕事に戻り、サッシを閉める。帰り際に、おそるおそるベランダを覗くと、まだポッポの奴は、いる。私の目線に気づいて、「すみません」という感じで、一応身じろぐ。まあ歩いているから、もう少し休んだらさっさと飛び立っていけ、とエールを贈る。よほどなにか美味しいモノでもたべて、精をつけさせようかとも一瞬よぎるが、糞でもされては本末転倒だし、彼の背後に控える大家族が押し寄せてきても困ると思い、その善意は思いとどまる。
翌朝、真っ先にベランダを覗く。・・居なかった。大丈夫でよかった。でも、やはりというか、私が立ちすくすサッシの足下ど真ん中に、5粒の糞をしていた。鳩が礼をするならこれしかなかろう。
とすると、彼流の寸志とも受け取れなくもない。本当に気持ちだけ、いただいておく。

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Posted on 01:11 [edit]

category: 日曜私観

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第158(日)自然との共生?  

自然との共生?

秋の気配が近づいているある日、街角で、真っ赤な街路樹に出くわした。自然物とは思えないぐらいに、美しく均一に赤。時々に通りすぎるいつもの場所にこんな樹があったのだろうかという、発見をする。

信号待ちの間、ハタと考える。この樹が美しく秋を振る舞えば振る舞うほど、周りの人工物との風景のギャップが露わになる。人間側から見たら、都市の風景を美しく彩る「一本の街路樹」。が、もし、この「一本の樹」からみたら、どうだろう。樹本人?からすれば、自分がこんなに美しく魅せていても自分の居場所のまちはまるで関係のないそぶりをしている、そんな思いだろうか。とにかく置かれた環境がどうであろうとも、樹は無為に働く。

例えばアメリカの生態学者アルドレオポルドはおそらくそういう感覚を大事にしていた人なのだろう。「山の身になって考える/1944」や、「野生のうたが聞こえる/1949」といった著作は、その表題だけからも、自然を対象化せずに、人間が人間の向こう側の立場に出向いてものごとを考えるというマインドセットが据えられている。もちろん、そのような思想やメッセージがいかにどこかで賞賛されても、社会の大きな枠組みや、個々人の行動は、簡単にそうははなれない。人間の方からすれば、自分たちを中心に考えて生きるしかなく、やはり自然から一方的に恩恵を被るばかりである。

物言わぬ自然を本当に同格に置いてつきあうことは、相手が物言わぬからこそ、とても難しい。文学としてひたすら発信されることはあっても、工学として即座に取り入れられることにはならないし、ましてや経済の仕組みが、そのような主観に従うという理はない。それぞれは、そういうところで、うまい具合に完全に土俵を違えている。

「一本の街路樹」はだから、自らがふさわしいとする背景を持ち得ない。いろいろなことが言われながら、形になりながらも、実は都市を形作る主人ではない。言い方は悪いが、アクセントとして扱われる。経済的な側面としてはもちろん、都市計画としての工学的探求も、基本的に自然は、伺う対象ではなく、用いる対象である。

それでも、青空や雲が生き生きとするビル街、落ち葉が似合う街路、など、学生やアイデアコンペのかけ声としてありそうではある。そこからマインドセットを立て直す糸口としては、必ずやよい機会であるかもしれない。営みとして、地理として、特区の枠内にとどまらず、「共生」のデモンストレーションから、社会のスタンダードとなっていく道筋がとにかく必要だ。


私の住む町の街角に、貴方の住む街角に、なんでもないところに、自然との対等な共生が露呈されている時に、人間としての大きな進展や感動があるのではないだろうか。物言わぬ自然の声を聴こうとする感覚は、おとぎ話として葬って済む時代ではないように思う。


Posted on 23:59 [edit]

category: その他

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Take Stool!  

設置、折り畳み

take stool!

日本語で普通に、竹製スツールの意ですが、「持って行け!」という意味合いも含んでいます。「持って行け」の意味は、写真のとおり座面は脚部にのっかっているだけなので、脚部は収縮して、コンパクトになります。たくさん同じものがある場合には、スタッキングはしないけど、かさばらず運べ、そうです。

竹スツールなる所以は、脚部は見るからに細竹の構造である、に加えて座面が竹の皮でできている、というのがあります。この竹の皮の編物にちょっと歴史があります。

ブルーノタウト(表現主義建築の旗手を振ったドイツを代表する歴史的建築家1880-1938)が群馬の少林山達磨寺に滞在中、地元の草鞋編み技術に注目、、その技術を研究し、パンかご、バスケット、コースター、椅子の座面、欄間や、床柱への意匠など、様々なプロダクトへ応用デザインを展開しました。竹皮というとかろうじて、おむすびの包みを思い出すのが関の山かと思いますが、意外な世界がありました。

ブルーノタウトって、なんだか「花咲かじいさん」のようだと思いました。彼の歩いて行ったところに、眠りかけていた技術や文化の華が咲く、という感じです。そして、彼のお土産を技術として引き継いでおられる方がかろうじて一人おられます。前島美江さん。地元群馬で、制作活動をされています。

それから、もう一つ、この竹皮編の竹皮には、なぜか福岡県八女の白竹(学名:カシロダケ)のものを用いるのだそうです。良質で強度があるとのこと。全国の中から探してそうなったのでしょうか。改めて八女の土地柄を見直してしまいます。


Posted on 16:48 [edit]

category: 本日の納品物

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MindSet2015  

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cobaさんのお話を聞いて、改めて、こういう生き方のようなものの、未来を感じずにはおれなくなった。世間では気がつくと「断捨離」、とか「ミニマリスト」という言葉がそれなりに浸透していて、余計なモノを捨てる、とか、持たないという主義の生き方が、一つのスタイルとして確立しつつある。だから、ちょっと時代的な考え方ではあるのだ。しかし、この手の話は、たとえばダイエットの延長から起こる拒食症や、逆にリバウンドというように、なんとなくやせ我慢から起こる脆さを含んではいないだろうかと勘ぐってしまう。節電というスローガンも、ほとぼりが冷めると、我慢が跳ね返って元の習慣に戻ってしまいそうである。例えばもし、ミニマリスト、なんていう言葉の拡がりを、その良識が一定の支持を得ようとしている契機と考えるならば、個人の趣味とかライフスタイルといったくくりに終わることなく、脆さを補い柔らかさのようなものを備えていって、社会全体の好転につなげていきたいところである。

テレビや雑誌や、もしくは画像検索で出てくる、それらの人々やイメージの個々は、事実を知らないのでなんともいえないが、何度かお会いしたcobaさんについては、その手の方々にありがちな堅くて脆い剛直な思いとは無縁な、柔らかい雰囲気を持っていた。彼女だって数年前までは、普通に車に乗り、家電を用いて、家事の短縮をもくろみ、生活を高回転で回すことをやってきた。ある時、疑問をもって、モノを捨ててみようと、そこから始まった。ある意味冷静な、実験的な姿勢から始められた。そしてその実験の連続によって自らの生活を省みてきたから、自分の奥底にあるものに尋ねながら、生活をシェイプアップしてきた。なんだか自然である。

こういう人々が、もはや特別であったり、変人だと、と周りが受け取ること自体、もう古いのかもしれない。各地に点々と、しみじみと、人目に触れることなく、自然にそういう営みを続けている人も、思いの外多いのかもしれない。

一方で、相変わらず、これまでとなんら変わらぬマインドセットの営みの方が、やはり主であるようにみえる。最近も、全自動折り畳み機なるスーパー家電の話がニュースが賑わせていたが、これなど、まさにそうだ。すでに普及している全自動洗濯機は洗濯から乾燥までを自動で行ってくれるが、そこから先の「折りたたみ」については、まだ人の手を煩わせているではないかと。ならば、自動で折りたたむ機械ができた暁には、主婦は生涯で約1年分の労働時間を短縮できる、という皮算用付きであった。
このあたりが、本当は、というか本来的に微妙なのだろう。人の手でやっていたことがある日を境に機械がやってくれるようになる。当面の手間が省けるのは間違いないが、その機械を得るためになにがしかの費用が必要になる。電気もそれなりに必要になる。高価な機械がそれ一つであるなら問題はないが、そういうものの集積で現代生活が営まれるとなると、費用の重なりは馬鹿にならない。当然、機械は壊れ、修繕や更新を余儀なくされる。家事を楽にする機械を整えるために、より多くの現金収入のため夫はより働く必要が生まれる。子供は家事の手伝いは不要となり、家のことを手伝うことなく、遊びや学業、趣味に走ることが出来て・・というより、親の様子から察して将来多くの収入を得なければと子供は早くから課外授業に脚を運ぶ。結局、母親は、一人で家事をこなすので案外忙しく、いったい誰が楽をしているのだろう、ということになる。

私が営む設計事務所も思い当たる節がある。たとえば、CAD(Conputar Aided Design)=パソコンによる製図が常識の今、 かつて手書きであった時代より、遙かに図面を修正していく時間は短縮できるようになった。しかし、パソコンのイニシャル+ランニングコストというのが、確実に固定費を底上げしているような気がするし、なによりも、依頼者側の意識として「図面はすぐ修正できるもの」という感じで、修正作業そのものが比例して増えているような気がするのだ。つまりは、楽にはなっていないかもしれない、という感覚。

携帯電話はすべての人に関わることと思うが、これによって優雅な生活を送れているかというと、大見栄切って言えないだろう。誰にも邪魔されずに爽快感を味わうためのトイレの中にまで相手がコールしてきた日には、爽快感どころか、電話先の相手に、ここがトイレであることがばれないような馬鹿げた気遣いに疲れることになる。

お金を介して、全ての人間が高回転で働かなくてはならない、大きな仕組み、仕掛け。特記すべきは、一つ一つの局所的な場面では、人間が楽になるためのものとして物事が生じている。ところが、局所を楽にはしたが、つもりつもって社会全体としては一人一人をまるでハムスターホイル(第149-151(日))の中に閉じ込めてしまっていることだ。人間の世界のハムスターホイルは、(グローバルであればあるほど)とてつもなく大きなホイールの中で、一匹ではなく、大勢で走っていて、もはや一人のペースでは止めることができない、そういうイメージに近いだろう。

その流れを生み出しているのは、やはり、人間一人一人に潜在している、欲と競争意識だろう。欲や競争意識こそが、人間を向上させ、他者、社会を豊かにしてきたのも事実。そして、競争意識の強い人間による力強い人生は確かに端から見ていても美しいし、頼もしい。しかし、同時に極限られた勝者よりも圧倒的多数である勝者以外(必ずしも敗者ではない、私も含めて?)の、報われない心身の疲弊を考えるべきだろう。一握りの勝者を中心とした社会の資本構造が高度資本主義社会の宿命であることは、既に周知の事実だ。(たとえば資産という意味で、世界の富の半分は世界の人々の1%の富裕層で所有されている)このような構造的な宿命があるならなおさら、この現代社会の哀しみをこそなんとかすべきと取り組むべきだろう。

考えていくポイントの一つは、「現代は電化社会である」ということ。電気を生み出すためのエネルギーの生産、流通に始まり、電気を生み出す事業、そして電気を使って動く機械の生産、流通とが、産業構造の大きな部分を占める。その構造の、あくまでも枠内に、私たち一人一人の生活がある。その枠組みに温存されているととらえるか、封じ込められているととらえるか。どちらにせよ、この産業構造の枠外で自由に生きることが、知らぬ間にできないようになっている。「知らぬ間にできなくなっている」というのがなにより不味かろう。そういう感覚があるかないかが、新しい世の中へ向かう二叉路となるだろう。




Posted on 20:20 [edit]

category: 日曜私観

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ベリースローライフ  

水と緑の家No5パース

日本におけるスローライフ運動というのは、これからが本番ではないかと勝手ながら思っている。様々なかたち、次元で、多くの人々がこの言葉をかみ砕き、なにがしかを蓄積してきたのだと思う。ポピュラーな部分は、「ライフスタイル」=カタカナでいい含められる、やわらかいスタイルイメージである。これまでどおりの生活の中で、ちょっと着せ替えるようなもの。主に価格に関する厳しいグローバル市場原理の中で、個人の趣味と繋がり、理性より感性と呼応する。時にささやかであり、かわいらしかったりしつつも、強い生存意思をもって存在している。
スローライフ運動のいちばん大事なところは、グローバリズムだけではダメなんだ、という強い拒否にあるのだろう。スローというには裏腹で、その姿勢はとても鮮烈で、原理的な意味での強さをもっている。もしくは重厚長大な社会システムの時代の中に、軽薄短小なシステムを創造することである。創り出すのだから、やはり強さが前提にある。ラディカル、というと、原理主義的な危ないイメージを伴うけれども、当たらずも遠からず、世の中の仕組みや方向性を問い直すだけの、疑う眼力がある。
一見するところ安定していて、平和が続きそうな私たちの国では、そんなに強い人は、そんなに多くは居ないけれども、でも、社会構造への危機感や疑いを持った人々の中で、本当に行動に移している人が、やはりいる。ラディカリスト、と言わないにしても、マインドセット(慣習化した思考態度)を疑う人々。ライフスタイルではなく「生活様式」の改革を唱える人々。栃木県の那須で非電化工房を営まれている藤村氏は、提唱者、実践者としておそらくその第一人者ではないかと個人的に思っている。未だお会いできていないが、大変興味深い。


個人として実行している人、実際にお会いしたことのあるその一人が、COBAさんということになる。名古屋出身で、旧姓からこの呼び名となった、れっきとした日本人。(ただし6年ほど、カリフォルニアでカレーのケータリングショップをされていた)今は佐賀市内でレストランを経営しながら、家族4人で住まわれている。聞くと、冷蔵庫、テレビ、車、掃除機などの、現代生活に欠かせない道具を持たずに、生活をされている。ホームレスでさえ、どれかは持っているだろう時代、どうやって生活しているのだろう、と興味津々である。これは私一人が受け止ればいいという話ではなく、また、興味本位で驚いているのではもったいないと思い、皆でその様子を伺う機会が必要だろうと、思った。


漆喰と木の室 モデルルーム
標本ラウンジその2:10月11日(日) 12:00~ 「電気に依存しない生活を考える会」

例えば、「こんなに電気を使わなければ、人間って生きていけないのかな」とフト、考えられたことはないでしょうか。KBCでも取材された「タイマー・カリフォルニア・キッチン(佐賀市)」のコバさんを佐賀からお招きして、ご飯をいただきながら、そんな、生活の基本を考え直す会にしたいと思っています。電気に限らず、何事もお金で買う時代の常識を振り返ってみるサンデーアフタヌーンです。


メニュー:
・酢漬け、乾物、塩漬け、発酵、オイル漬け、防腐剤
・干しえのきと塩漬け大葉のおにぎり
・みそ漬け物
・ベーコンと梅酢野菜
・マヨネーズを使った一品    参加費¥500

Posted on 14:40 [edit]

category: センシブルハウス

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